読み物

2025.06.30

コーヒーと文学:作家とその好むコーヒー

コーヒーと文学:作家とその好むコーヒー

文学の世界には、登場人物や風景だけでなく、静かなカップ一杯のコーヒーが深く息づいています。作家たちは、コーヒーの香りと苦味のなかに思索と創造の源泉を見出してきました。執筆の傍らで湯気を立てるコーヒーは、彼らの作品世界にさりげなく、けれど確かに影響を与えてきたのです。本記事では、実在の作家たちと彼らの好んだコーヒーについて、エピソードとともに紹介します。

フランス文学とカフェ文化の融合

ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、パリの「カフェ・ド・フロール」や「ドゥ・マゴ」などの有名なカフェで日々を過ごしながら哲学的・文学的議論を交わしました。彼らにとってカフェは単なる憩いの場ではなく、知的空間そのものでした。朝のエスプレッソ一杯が、思考を研ぎ澄ませるスイッチとなっていたのです。

このようなカフェ文化の中で、サルトルはコーヒーを通じて世界を凝視し、文学にその視点を反映させていきました。パリのカフェと濃いコーヒーの香りは、彼の存在論的文学における空気感の一部となっています。

芥川龍之介と繊細な味覚

日本の文豪芥川龍之介もまた、コーヒーを愛した作家のひとりです。彼は西洋文化に強い関心を抱き、その中でもコーヒーに対する嗜好は際立っていました。芥川は深煎りの濃いコーヒーよりも、やや軽めの味を好み、静かな執筆の時間を大切にしていました。

とある日記には、喫茶店で過ごした午後の様子が記されており、コーヒーの湯気が静かに立ち上る中で、彼は短編小説の構想を練っていたと語られています。文学的感受性の高さを持つ彼にとって、コーヒーは繊細な心を整える不可欠な存在だったのです。

村上春樹とモーニングコーヒー

現代の作家村上春樹は、朝起きてまずコーヒーを淹れることで一日を始めると公言しています。豆を挽く音、湯を注ぐ手順、香りが立ち上る瞬間までが、彼の創作活動のリズムとなっています。彼のエッセイや小説にも、登場人物がコーヒーを丁寧に淹れるシーンが多く登場し、それが静謐な世界観を象徴する演出になっているのです。

村上にとってコーヒーは、ただの飲み物ではなく、執筆に向かう「儀式」の一環。思考を静め、言葉を整える準備として、日々欠かせないものになっています。

エミリー・ディキンソンと家庭的なコーヒー

アメリカの詩人エミリー・ディキンソンは、閉ざされた空間の中で深く世界と向き合った作家です。彼女の暮らしは家族との生活に密着しており、そのなかでのコーヒータイムは、心の穏やかさを保つ大切なひとときでした。来客との短い会話や、家族との時間の中に差し込まれるコーヒーの時間には、特別な意味が込められていたと言われています。

彼女の詩に見られる独特な間合いや沈黙の重みは、こうした静かな日常と、それを包み込むコーヒーの温もりと無縁ではなかったはずです。

ヘミングウェイと力強いブラックコーヒー

大胆な文体で知られるアーネスト・ヘミングウェイは、強いブラックコーヒーを好んでいました。彼の作品に登場するコーヒーの描写も、無駄のない力強さを持っています。特に『誰がために鐘は鳴る』や『移動祝祭日』には、スペインやパリのカフェでのエピソードが登場し、コーヒーが登場人物の内面を象徴する存在として描かれています。

彼にとってコーヒーは、戦場や旅の中での束の間の休息と再生を与えるものであり、男らしさと孤独の象徴として語られることも少なくありません。

シャーロット・パーキンズ・ギルマンのコーヒー儀式

アメリカのフェミニスト作家、シャーロット・パーキンズ・ギルマンも、コーヒーを深く愛していました。彼女の著作の中には、家族や女性の生活におけるコーヒーの役割が描かれており、朝の一杯のコーヒーが女性たちの日常を豊かにすると説いています。ギルマンにとってコーヒーは、単なる飲み物以上に、女性の自立と創造的生活の象徴でもありました。

ジョージ・オーウェルとそのコーヒー論

『1984』や『動物農場』の作者ジョージ・オーウェルは、自作の随筆でコーヒーについて興味深い考察を残しています。彼はコーヒーを飲む習慣がなく、紅茶派であったものの、コーヒーの文化的な側面を認めていました。特に「カフェ文化は社会の集会場として重要」と述べ、コーヒーが単なる嗜好品以上に、社会的交流や知的討論の場を創り出す力を持つと評価していたのです。

他にもいる、コーヒーと親しんだ作家たち

  • ホルヘ・ルイス・ボルヘス:視力を失っていく中でも、ブエノスアイレスのカフェでコーヒーを味わい、想像の世界を旅していたと言われています。
  • レイモンド・カーヴァー:短編の名手である彼は、朝の静寂とともにコーヒーを飲むことで筆を走らせたという逸話があります。
  • ジョイス・キャロル・オーツ:彼女の創作時間には、必ずカップに注がれた温かいコーヒーがあったことが知られています。

彼らに共通するのは、コーヒーが生活と創造の境界を曖昧にし、作品に深みを与える存在となっていたことです。

まとめ

文学とコーヒー。そのつながりは静かでありながら、どこまでも深いものです。作家たちが書斎やカフェで味わったコーヒーは、時にアイデアのきっかけとなり、時に感情の調整役を担ってきました。香り高い一杯のコーヒーが、書き手の想像力をかき立て、読者の心にも豊かな余韻を残すのです。日常のなかで、読書とともにコーヒーを楽しむ時間を持つことは、まるで作家たちの息づかいに触れるような、そんな贅沢な瞬間になるのではないでしょうか。

  • facebook
  • line
  • X